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選択的夫婦別姓についての感想

2020年3月4日

選択的夫婦別姓制度を認めるかどうかというのが長い間議論になっている。普通に考えれば、決して別姓を強制しているわけでなく、別姓を選びたい人だけが別姓になるのだから、なんの問題もないに決まっている。こんなものに反対する人間は単にまともに考える能力がないというだけのことである。別姓になったら、家庭が壊れるとか、子供が可愛そうだとかわけのわからんことを言っているが、だいたいお前はそんなに他人の家庭のことを心配しているというのか。近所に引きこもりの子がいたら、励ましに行ったりしているのか。近所で虐待があったら身を張って止めに行ったりしているのか。そんなことは全く無くて、そんな話を聞いても「あの家庭は教育がなっていない、それに比べた我が家は」などと言って、優越感に浸っているのが落ちだろう。反対している連中というのはその程度のものなのである。話はそんだけである。しかしながら、ちょっとこれで終わるのは寂しいのでその背景なども書いてみよう。

もともと姓とは家とか氏族という団体の名称であった。だから結婚してある家から別の家に移るのだから、名前がかわるもクソもなかったのである。要するに転職して三菱商事から三井物産に移れば、今までは他社の人から「三菱商事の山本さん」とか「三菱商事さん」呼ばれていたのが、今度は「三井物産の山本さん」とか単に「三井物産さん」と呼ばれるようなものである。ほとんどの人が、自分のことを、所属している会社名で呼ばれたことがあるだろう。これが「いや俺はもともと三菱商事にいたのだから「三井物産の山本さん」とは呼ばないでくれ、「三菱商事の山本さん」と呼んでくれといっても意味が通じないであろう。もともと団体名であった姓が今やあたかも個人名になってしまった。今は「家」という団体はないのである。だから結婚に際して姓が変わるのに抵抗を覚えるのもわかる。そもそも姓という物自体が不要なのである。思うに、人を呼ぶのに姓を使いだしたのはいつからなのだろうか。平家物語などを読んでも平清盛は清盛と書かれている。まあ、姓が「平」だらけだからしかたないが。信長公記でも、織田信長は織田とは呼ばずに信長と書かれている。

それから。この姓名というのは要するに日本国政府に登録しているアカウント名である。パソコンでユーチューブなどに登録しているアカウント名と同レベルの話なのである。だから結婚してアカウント名が変わることなど対して気にすることもないといえばそのとおりなのである。普段は旧姓を名乗っていればいいのである。しかし歴史の必然か、政府というものが権威を持ってしまった。その結果このアカウント名は本名という名称をもち、これ以外は偽名といわれ、なにか悪いことでもしたかのようになってしまったのである。

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