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大学院受験の頃の思いで

最終学歴は一応、京都大学大学院理学研究科物理学・宇宙物理学専攻博士課程単位取得退学なのですが、自分が京大出身という気持ちは全くないですね。京大では修士・博士の計5年間いましたが勉強が中心の生活でしたので、京大で働いていたというのに似た気持ちです。これは出身大学以外の大学院に行かれた人なら皆そう感じるんじゃないでしょうか。京大では物性理論研究室の統計物理学と非線形動力学グループに所属しました。今でも京大の非線形動力学研究室のホームページに私の名前がでてきます。大学院では本当に誰の指導も受けづに勝手に勉強していました。ある意味少し暗い時代だったかもしれません。そのときの修士論文が論文のページに載せてあるものです。この論文は問題になりました。教授会から呼び出しをくらって2、3回議論していろいろ反論とかしましたよ。このときのいろいろな人の対応を見て何か人間の醜さなどを見た感じがしました。また、やさしい人もいました。あれは貴重な経験でしたね。でもこの論文は結構人気があったんですよ。欲しいと言ってくれる人が何人もいました。うれしかったもんですよ。で、まあこの論文の一部を発展させて作ったのが論文のページに載せてあるBose-Einsytin凝縮の論文です。Pysical REview Aに乗りました。これは一応物理の世界では最も権威がある雑誌なんです。ここで誤解して欲しくないんですがいい雑誌に載ったからといって、それがいい論文というわけでは決してないということです。実際は逆で99%はあってもなくてもどうでもいい論文なんです。そして私のもその99%のほうでした。で、話は戻りますが、そうやって掲載されても、あんまりうれしくなかったですね。このころから大学の世界から足を洗おうと決めていたからだと思います。。意味のない論文を量産して教授になるという人生は私には耐えがたいものに思えたのだと思います。まあ、他にも理由あったのでしょうが。で、まあ博士課程3年いて博士論文もださずにあっさり大学院をやめました。親は怒りましたね。少し申し訳なく思ったし今でも私の心の傷になっています。いくら自分の人生でもやはり周りへの気配りというのは必要なんですね。せめて親に相談し説得してからやめればよかったと思います。私は大学院をやめたあと、まわりから何でやめたんだと本当に100回ぐらい聞かれてつくづくやんなりました。そのうちまわりの人に自分が京大で物理を勉強していたことを隠すようになりました。まあでもここに何でやめたか書いたのでこんど聞かれたらホームページに理由が書いてあるから見てといって逃げようと思います。自分の過去を隠すのもそれはそれで面倒ですからね。2011.11.11
あとまあ、やめた理由としては他のことを勉強したかったというのもありますね。経済を勉強したかったし、あと歴史も。大学院にいると物理以外をやっていると何というか一種の罪悪感みたいなものを感じたものですよ。「俺こんなことしてていいのかなあっ」て。本当に大学院生てのは大変ですよ。経済はスミスの国富論を読んで、経済のことがわかったなあって思いました。物の値段というものは労働の値段なんだってことを。でまあ、経済もそれなりに勉強して、もう後は知りたいこともなくなりました。だからまあ今はあまり本を読まないし、読みたい本もないですねえ。本を読んで感動するのは若いときだけなんじゃないでしょうか。とはいっても、カントは40過ぎてヒュームの人性論を読んで独断のまどろみからさめたとかいいますから、私にもまだそういうことがあるかもしれませんね。2011.11.11

大学院をやめたこと、アカデミックな世界から足を洗った理由をまとめると
1. まず物理を勉強してもエクスタシーを感じなくなった。最初の内は勉強しているとき何ともいえないエクスタシー、快感を感じて、その余韻に浸りながら散歩とかしたものです。一種の麻薬中毒のようなものでしょうか。しかしだんだんそういう快感が得られなくなった。それは年ともにそうなってくるのはしょうがないことかなあと思います。高校生のときに理科Ⅰ(運動の法則の部分)の教科書を読んだときがもっともエクスタシーを感じたわけですから。そして快感よりどちらかというと苦痛の方が大きくなってきた。まあ、苦痛と言ったら変ですが、やっぱり勉強すると神経が疲れる。すると人間気分が暗くなるんですよね。
2. 他のことを勉強したかった。これは上に書いた経済とか歴史とか民俗学とかその他諸々です。そして世の中を見てみたかったというのもあります。
3. まあ、「俺は物理学者になるために、いわんや大学教授になるために物理をしてたわけではない。俺は世の中を理解するために、その一環として物理をやっていたんだ。」というのが一番自分の気持ちを表していると思います。2012.6.18

ここで、大学院受験のことを書いてみたいと思います。15年以上も前のことです。大学院試験というものが世間一般の人は知らないと思いますので貴重な証言じゃないかなあと思います。私も記憶を頼りに書くので誤りがあるかもしれません。私は北大の農学部にいたんですが当時農学部や工学部の人は北大に関して言えば7割ぐらいの人が大学院に進学したと思います。そして大学院の入学試験というものですが農学部と工学部に関してはあってなかったようなものだったと思います。ラグビー部の同期でラグビーの素質の塊だった人がいるんですが、大学院の入試には落ちています。が、再試というものがあってちゃっかりそれに受かって大学院に入っています(本人曰く、再試の時は勉強したそうです)。要するに最初っから出来レースであり、少なくとも下から上がってくるやつは希望さえすれば誰でも入れたのです。ラグビー部の2つ先輩の人も土木学科の院試に落ちていますが(御本人に確認しましたが落ちてないそうです。2014.8.16)、確か再試でちゃっかり入学していると思います。そのとき、ある人が「あんなのそこらへんのおじさんでも受かるのになあ。どうやったら落ちるんだろう。」と不思議がっていました。とにかくそいういう試験だったのです。ちなみにラグビー部の留年率は50%を超えていました。それくらい勉強しないと落ちることもあるということだったのです。2011.11.27
しかし農学部、工学部以外では院試は難しいことが多いのです。ここら辺から自分自身の体験を書いていきます。私は1992年の11月の東北大との定期戦を最後にラグビー部を引退しました。で時間があったのでいろいろ勉強しました。そのなかに数学と物理も含まれていました。1994年3月に大学を卒業しましたが、就職しませんでした。当時はぷー太郎と言われていました。どこにも所属しないというのは当時はつらかったですね。フリーターという言葉も登場しつつありましたが、このことばにはなじめませんでした。同じようにぷー太郎をしていた友人は「俺たちは夏目漱石の言う高等遊民だ」と言っていたのを覚えています。私の場合1994年夏に北大と東大の物理学科の院試を受けましたが難なく落ちました。このときは自分自身でまだ全然勉強ができていない状態で量子力学の知識はほぼゼロ。力学くらいがわかっているという程度でしたので落ちて当然でした。受かるわけないというのはわかっていたのですが、親には大学院に行くために浪人していると言っていたのでどこか受けないわけにはいかなかったのです。それでまあどこでもいいやと思って札幌に住んでいたので北大。東京に遊びに行くついでに東大を受けたんだと思います。大学院受験には研究室というか物理の中でも何を専攻するかを選ばなければならなかったのですが、例えば素粒子論とか低温物理の実験とか、私はどこを選んだかも全く覚えていません。覚えているのは北大の院試の前の晩の夜遅く肉体労働のバイトをしていて「明日試験です」といったらバイトさきのおじさんが「お前大丈夫か」と心配してくれたことです。それと今思い出しましたが、この後家に帰って寝ていたら、新聞社に勤めていた友人が深夜に急に下宿にきて(酔っぱらっていたと思う)泊めてくれといって泊まっていきほとんど寝ずに北大の院試を受けました。両方とも当然落ちると思ってうけたのですが不合格通知を受け取ったときは2時間くらいは不愉快になりましたね。2011.11.27
で当時は過去問というのは全く流通していませんでした。で、私は次の年も受けることになりました。もともと物理をとおして世の中を理解するというのが目的でしたので院試のための勉強というのはほとんどしませんでした。で、確か院試の3カ月くらい前から院試のことは全く考えないようにしようと思って院試には絶対でない一般相対論とかスミルノロフの高等数学教程とかを読んでたと思います。そんなふうに過ごしていたのですが、1995年夏に静岡大学と金沢大学と京都大学の物理学科の院試を受けたのです。なぜこの3つを受けたかというのはもう忘れました。当時の気持ちを思い出しながら書くと、せっかく物理をある程度学んだんだから一度でいいから物理学科に入って見たいという気持ちがありました。ちなみに北大でも物理希望でしたが難なく農学部に振り分けられました。それでまあ、静岡大学と金沢大学2つ受ければどっちか受からないかと思ったのです。ちなみに国立大学ならかならず物理学科があるというわけではなく、ない大学の方が多かったと思います。北大を受けなかったのはまず一つには札幌に飽きていたんだと思います。それと進振りで入れなかったので恨みがあったのかもしれません。当時の私としては大学でいい成績をとる連中とは合わんという思いがあったかもしれません。あと京大を受けたのはおそらく一つくらい難しそうなところを受けてみるかという記念受験的なものだったと思います。東大でもよかったのですが、東大は当時学部生よりも院生の定員の方が多く結構簡単だったのです。2011.11.27
でその3つを受けたのですが、受かる自信というものは全くなかったですね。まず過去問がないので一体どんな問題がでるかさっぱりわからない。それに大学入試のように模試があって順位がわかり事前に受かりそうかどうかわかるということはなく、さっぱりわからないということです。合否が事前にある程度予想をつけてくれるという点で予備校というものは受験生の不安をやわらげてくれる結構役に立つ存在なんですよね。1995年8月だったと思いますが最初に静岡大学を受けました。私は試験前には緊張することはないのですが初めて緊張しました。でもまあ試験は簡単でした。たぶん物理3時間くらいの試験だったと思うのですが、自分では全問できたと思いました。英語もあったのかな、覚えていませんが。で確か翌日筆記試験の合格者が発表されて自分の名前がありました。で面接です。私は原子核理論を第1希望に確か書きました。でその教授がなんで原子核理論を希望したんだと聞き、私は物理学科のことはよくわからないので適当に書いたと正直に答えたら、怒りだしました。何か量子力学で知っていることを言ってみろと言われ、原子では電子は一定の軌道しか許されないみたいなことを言ったら、そんなもの高校生でも知っていると言われました。何か気まずい雰囲気でまわりの先生は困ってたと思いますよ。そんなこんなで静岡大学を後にしたわけです。2011.11.27
次が京大だったと思います。京大の院試は2日間だったと思います。初日が午前物理3時間、午後物理3時間、2日目が午前物理3時間、午後が英語1時間くらいだったと思います。ここは最初っから受かる気がなかったので気楽でした。でも疲れ切りましたね。物理の各3時間に確か3問ずつあったと思います。私は3問のうちできそうな1問を選んでゆっくりやったような気がします。それで各時間ことに1問は完答して計3問はできたと思ってます。まあわからんですけどね。でもその答えられた問題というのは別に私がその場で答えをひねり出したものでも何でもないんです。全部教科書にでていることそのままでしたね。覚えているのは1つは双極子による電磁波の放射。それと量子力学の調和振動子の昇降、下降演算子の問題でした。こんなのは教科書に出ていますからね。静岡大学でも金沢大学でもだいたい教科書にでているような基本的な問題ばかりだったと思います。その点は大学入試とは違いましたね。だんだん筆も調子がでてきて書くのも楽しくなってきましたが、疲れたのでこの先は後日。でもこんなことおそらく誰にも話したこともないようなことをこうしてネットに書くと言うのも不思議な気がしますね。あくまで遠い昔の思いでですので事実と違う部分もあるかもしれません。それにかっこつけている部分もあると思います。2011.11.27
で次の日ぐらいに京大の筆記試験の合格発表がありました。で私も筆記試験は受かりました。京大は志望先を第4希望まで書くようになっていました。第1希望は基礎物理学研究所のどこかにした記憶があります。もともと原理的な面に興味があったから基礎物理学研究所なら基礎的なことをできるだろうと思ったのだと思います。第2希望が非平衡統計物理学、第3希望が原子核の実験だったかな。よく覚えてません。そして第4希望が低温物理実験でした。で私が筆記に受かって面接したのは第2希望の非平衡統計物理学でした。面接自体は物性理論グループ全体でやっていましたね。あとで知ったのですが、物理には素粒子系の理論と実験。物性系の理論と実験の4つに分かれていました。私など物理とは無縁の世界にいたのでそういうこともさっぱり知りませんでした。で、その物性理論の面接を受けたのが全部で16人ぐらいいたと思います。で、確か何でもいいから物理について発表かスピーチをするというのが課題だったと思います。それで私は高校生のときに理科Ⅰの教科書を読んで感動したという話をしたんです。そしたらそれが受けちゃいました。で志望も適当に書いたと言ったんですが、あっちも「そりゃあ農学部だからわからんよねえ」という感じで理解がありましたね。それから「物理の実験でもいいんじゃない」などといわれました。まあ私としては農学部のときに実験で散々いやな思いをしたし、あの当時実験が嫌いだった。卒業研究の時は高価な実験器具も壊したりしていました。それに何といっても実験などやっていたら物理の勉強をしている時間がなくなると思ってました。これが一番大きな理由で「私は実験に向いていないんで」とか言ったんですが、その日か次の日ぐらいに物性実験の方の面接も受けました。こっちでは物性理論で話した理科Ⅰで感動したという話は受けず淡々としたものでした。今から考えると低温実験の教授は人柄もよさそうだったしこっちの方がよかったかなあとも思いますね。でまあ、こんなふうに京大の院試は終わっていくわけです。今ここで書いていることなど本当に人に話したことないことばかりですね。2011.11.27
それでその後しばらく大阪にいるラグビー部の先輩の家に泊めてもらいました。彼が確か近所のおじさんでも受かるといわれた土木の院試に落ちた人だったと思いますが。閑話休題。でたしか彼と銭湯に行った帰りかなんかにたぶん実家に電話して静岡大が合格だったということを知ったんだと思いますね。そのときは本当にうれしかたですね。なんというかようやく社会復帰できるというか。やっぱりどこにも所属せずに勉強していると社会の風当たりが強かったんでしょうね。飛び跳ねるように2人でアパートに戻ったような気がしますよ。彼も「宮ポンすごいなあ」とか言ってくれた気がしますね。そしてその後、金沢大を受けに行ったんだと思います。2011.11.27
金沢大の試験もだいたい静岡大と同じような感じだったと思います。もう3つ目なんで緊張もなく、記憶も薄いですね。こちらもほぼ満点だったと思います。で筆記試験に受かって次の日に面接だったのかな。そこでよく覚えているのが受験生がみんな背広を着ていたことでしたね。これは静岡大や京大ではない現象でした。それと妙に教官が威張っていて印象悪かったですね。私は第一希望素粒子理論、第2希望物性理論でした。で面接は素粒子理論と物性理論が合同でやってました。でまあ面接で聞かれたのは大学院は研究に忙しいからアルバイトなどできない。生活費は大丈夫かということでした。私はアルバイトで自活するつもりだとはっきり答えました。あと素粒子論でも物性論でもどちらでもよいとも答えました。まああんまり感じのいい面接ではなかったですね。こんなあんなで私の大学院試験は全て終わったわけです。それでその後のことはよく覚えていないんですが、京大に合格発表は見に行きました。で受かっていたわけです。でも受験番号は出ていても物性理論の統計物理なのか物性実験の低温物理なのかが書いていない。たまたま近くにいた山田耕作先生にどっちですかと聞いたら統計物理ですと言われてようやくわかったわけです。物性理論は最終合格者7人だったので面接で結構落ちているんですね。私は筆記はさっぱりだったが面接で大受けしたので受かったんだと思います。でまあ京大の合格も静岡大のときと同じくらいうれしかったですね。そして、私は敦賀あたりから日本海フェリーに乗って札幌に戻ったわけです。ちなみに金沢大も合格していて、こちらは物性理論としての合格でした。そんな札幌から内地に戻っての大学院受験の旅でした。まあ、関心ない人にはさっぱり面白くなかったでしょうね。次は京大での生活でも書いてみようかと思います。2011.11.27
私は1996年4月に大学院に入学しました。入学したそうそう事務の人に「メールで連絡します」と言われたとき、メールってなんだと思いましたけど、北海道の田舎から来てそんなことも知らないのかと思われたくなかったので、質問もできずに「わかりました」と答えたことは覚えていますね。当時はメールなんて誰も知らなかったと思うんですが、物理の院では皆使ってましたね。あとインターネットもこのとき初めて知りました。当時は確かモザイクとかいうブラウザーだったと思います。それとネットスケープとうのもありましたね。研究室についてですが、物性理論グループの中に凝縮系理論、非平衡統計力学、非線形動力学がありました。で、この3つの専攻の人は部屋とかもいっしょで物性理論研究室で一つのまとまりと言う感じでした。院性は1学年7人ぐらいいました。で7割がた博士課程へ進学してたと思います。修士で就職すると言う人は明らかに少数派でしたね。あと院生はほとんど全員京大理学部の卒業生でした。私の友達で一ツ橋の院にいったやつがいるんですが、半分くらいは他大学から来ていたといってましたけど、私が入ったところはそんなことなかったですね。私の知る限りでは博士の3年と1年に東大出身の人がいただけでした。もちろん全員の出身大学を調べたわけではないんでわからないですけどね。少なくとも私と同時に入学した人は私以外全員京大の理学部出身でした。そのうち2人は大学院の入試のために浪人したということだったんで、試験は結構難しかったんですよ。私の場合は面接で受かっただけなんですけどね。で、わたしより10年くらい前はもっと難しかったらしいんです。私と同室になった8年くらい先輩の人は「俺らのときは物性理論で3人しかとらなかった。だから、あいつに勝たなきゃ入学できないんだと思って必死になって勉強した。大学入試のときより勉強したよ」みたいなことを言ってました。その人も確か院試で1浪したんじゃなかったかなあ。2011.11.28
京都の印象としては人あたりの柔らかさでしたね。店の人が愛想がいい。これは札幌との決定的な違いです。札幌の店は無愛想な人が多かったですよ。あとお好み焼屋の多さには驚きましたね。いやになったのは道の狭さ、あと暑さ、家賃の高さ。家賃に関してはぼったくりでしたね。更新料やら礼金やら。本当に札幌と京都は対照的でしたよ。あらゆるところが逆。京大生の印象ですがなんか冷めた学生がおおいなあという印象でしたね。20歳くらいと言えば、こうバカ騒ぎと言うか意味のない明るさがあってもいいと思うんですが、そういうのがあんまり感じられなかった。たんたんとサラリーマンのような学生が多かったという印象がありますね。これは私が院生だったのでそういう人たちばかりを見ていたからかもしれません。北大のときはラグビー部だったので、あの連中は明るさ、屈託のなさに関しては飛びぬけていたのでそう思うのかもしれません。当時の北大の学生は無茶やってたとは思いますよ。私の在学中に死亡事故とかしょっちゅうありましたからねえ。やっぱり本州から北の大地に来てうかれちゃうってところもあるんでしょうね。あとまあ北大との違いといえばエリート意識ですかね。物性理論研究室の中では明らかに自分たちは賢い人間たちなんだという意識がありました。学部生とかについてはよくわからないですが、私が学部の授業を受けたときに教官が「君たちは賢いから・・・だけど」というような発言を2回くらい耳にしましたよ。北大の教官がそんなこと言うことはなかったですね。でまあ京大生が北大生より賢いかと言ったらそんなことはなかったですね。京大生といっても私が知っているのは主に物性理論の院生なんですが。というか、物性理論の院生に関して言えば、はっきり言えば知恵とか見識というものはなかったですね。これはある意味しょうがないことなんです。というのは知恵や見識を身につけるにはやはり余暇というか考える時間が必要なんですが、物理ばっかりやってたらそんな余裕はないわけなんですよね。だからこれは物理の教授たちにもいえることなんです。物理の研究ばっかりしているわけだから人間や人生について見識なんて身に着かないですよ。ここら辺は世間の人ははっきり誤解していると思いますよ。なんか京大の教授だというとその専門分野以外でも見識がありその上人格まで優れていると思いがちですがそんなことは全くありません。だからよくノーベル賞を取った人を政府の教育関係の審議会の委員に選んだりしますが、そんなことやめとけよといつも思いますね。2011.11.28
京大の物理の院で良かった点は先生についてさん付で読んでいたことですね。山田先生でなく山田さんと呼んでいました。まあ呼び方なんかどうでもいいじゃないかという意見もあるとは思うんですが、やはりこう呼べるということは、教師と学生の間の身分差というのがなかったんだと思いますよ。で私もなかったと感じています。おそらくこれは三高からの伝統なんでしょうねえ。リベラルな感じだったんでしょうね。悪いことを書いたらきりがないんですが。2011.11.28
京都の下宿で特筆すべきことは石油を使った暖房器具が禁止されていたことですね。京大のまわりでは全部そうでしたよ。わたしなど築80年の下宿に住んでたので隙間っ風はぴゅーぴゅーで大変でした。しょっちゅう風邪をひいてましたし、D1のときは肺炎になりかかりましたよ。それでしょうがなく嫌いなこたつを買ったんです。それまでは電気ストーブで耐えてましたからね。今はどうなのか知りませんが、よくあんな非人間的取扱ができるなあと思いましたよ。悪しき伝統とはまさにあのことでしたね。札幌の方が全然暖かいわけですから。札幌の家なんて真冬でも20度以上ありますからね。もちろん道産子の一般家庭ですけど。学生が住んでいる下宿ではそんなに暖かくはなかったですけど。
もともとはプロフィールを書くつもりだったんですが、だんだんエッセイのようになってきましたね。京都で一番好きだったところは鞍馬山ですね。何回も行きましたよ。叡山電車に乗って。ちなみにあれは元々京福電鉄だったらしいですよ。何でも京都と福井を結ぶ予定だったとか。でも実際は京都で10kmくらい。福井でも10kmくらいであれほどの名前倒れの電車もないですね。私は子供のころ福井に住んでて、この電車は本当は京都までつながる予定だったと聞いていて、その京都でのなれの果てを見た感じがして面白かったですよ。で鞍馬の話題に戻りますが、あそこは雪が多いんですよ。市街地からたいして離れていないのに。鞍馬は本当に静かでいいとこでした。その点市街地にある観光地はもう人ひと人で満員電車のようで風情もなんにもありません。ちょっとあと不思議だったのが鞍馬の近くに貴船というところがあるのですが実に奇妙なところでしたね。鞍馬からとぼとぼ歩いていたらいきなり山と川のあるところに料理旅館が何十件も立ち並んでいるわけです。こんな交通が不便な山奥になんでこんないっぱい旅館があるんだろうと実に不思議でした。こう小説家とかがこもって小説を書いているような旅館がならんでましたね。2011.12.8
京都ではまあ物理中心の生活だったわけですがいろいろ考えましたよ。そのときにつくづく思ったのが人生は退屈との戦いだということですね。安定を求めれば必ず退屈する。今もこの考えはだいたい支持していますね。まあそれ以外にもいろいろ考えはしましたけど。札幌でのぷー太郎時代よりは考えなくなりましたね。だいたいの思想というのは札幌でのぷー太郎時代にできたような気がしますね。今度、今思っている人生訓でも書き連ねてみようかと思います。2011.12.8

2011年11月11日に書き始め、最終加筆がおそらく2012年6月18日

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