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ジャスラック(JASRAC)と音楽教室の裁判は裁判官の越権行為

2020年3月3日

ジャスラックが音楽教室に対して著作権料を請求できるという判決が下ったが 明らかに裁判所の越権行為だろう。なんでも公衆に向かって聞かせるのは著作権料を払わなければいけないので、生徒も公衆だ何だという話だが。そういう屁理屈はどうでもいいんだよ。要は最初法律を国会で作ったときに音楽教室で教えるのに著作権料が発生するということを想定していたかということなんだよ。そんなものは国会では想定しておらず、コンサートで曲を使ったら、という意味だったんだよ。その当時から音楽教室はあったが、この法律を作ったとき、これからは音楽教室も著作権料を払わなければいけないなあと国会議員の頭に浮かんだだろうか。そんなものは、かけらも浮かんでないはずだ。それを一裁判官が勝手に法律を解釈して、というか新たに作り出してしまっていいのだろうか。言うまでもないが、俺は音楽教室が作曲者にお金を払う必要などないと思っているが、国会で議論されて、それが法律に明記されているならしょうがないとは思う。しかしながら、当初想定されなかったことを公衆という言葉を捻じ曲げて新たな法律を作り出す権利はただの行政官でしかない裁判官にはないのである。それは(たとえ選挙というバカバカしいものから選ばれたとはいえ)国民から選ばれた国会議員のすることなのである。前から思っているが、裁判官の権限というものが強すぎるのである。まあ、馬鹿げた判決にいちいち文句をつけていても切りがないのだが、あまりにもひどいのでちょっと書いてみた。言い忘れたが、一番悪いのはジャスラック(JASRAC)で、法律を捻じ曲げてお金を請求しようとする行為はヤクザ、チンピラの類だ。請求したいならまず国会に法律を作ってくれと頼むべきなんだよ。そこで国民的議論をすべきなんだ。

さて、そういう裁判官の越権行為はおいといて、音楽教室で教えるのに著作権料を払う必要などない理由を(バカバカしいが)書いておこう。おそらくほぼ100%の人が払う必要などないと思っているだろう。もし必要があるなどと考えているなら、それは判例か何か、法律論に頭を侵されて、自分の頭で考えていないのである。我々は日々、誰かが編み出した知識を教えられてここまで成長してきた。学校で習うこともそうだ。すべて誰かが作り出した知識だ。それに対してお金を払っていない。物理の知識も元を正せばニュートン力学だ。ニュートンが作ったものだ。しかし高校大学で力学を教えるのにわざわざニュートンにお金を払っていない。大学である本を教材に教えても、わざわざ著者に著作権料を払っていない。我々はIPS細胞の話をするのにわざわざ山中教授にお金を払っていないし、相対性理論の公演をするのにアインシュタインにお金を払っていない。教える知識自体に対してお金を取るというのはあまりにも社会の慣例に反していている。教育というものはほぼすべて他人から得た知識を伝えることだ。その行為に対して著作権料を払ってないのに、なぜ音楽だけ払わなければならないのだ。 だからこそ、こんな社会に慣習に反した要求をするなら、つまり、それが正当化できる特別な理由があるなら、国会を通して国民的議論をすべきなのだ。知識を教えるということはほぼ間違いなく、誰かの創った知識を借りているのであって、そういうことにまでお金をとるというのはあまりにも窮屈な話なのである。これは、何でもお金に変えたがるヨーロッパ、特にアメリカ文化の悪習だろう。

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