法政大学出版局から出ている「奇蹟論・迷信論・自殺論」の巻末にこの自伝の翻訳がでていました。参照させていただき訳を改良しました。かなり意訳しました。末尾に年表を付けました。2018.1.14
デイヴィット・ヒューム自伝
人間というものは自分のことを長く話すとどうしても見栄を張ってしまうものだ。それで簡潔に述べようと思う。
読者は私が虚栄心から自伝を書くと思うかもしれない。
しかしながら、この自伝は単なる私の学者としての歴史でしかない。実際、私は人生を学問の探求に捧げてきたのだ。とは言え、その学者としての出だしというものは決して自慢できるようなものではなかったが。
私は旧暦(ユリウス暦)の1711年4月26日にエジンバラで生まれた。父も母もよい家柄の出だった。父はホーム(ヒューム)伯爵の家系であり、祖先は何世代も領主であった――今は兄がそれを引き継いでいる。母はダビッドファルコナー男爵の娘であり、その男爵は法律大学の学長だった。尚、ハルケルトン卿の称号は母の兄弟が引き継いだ。
私の家庭は、家柄はよくても決して裕福ではなかった。そして私は次男であり、相続できる財産はわずかしかなかった。父は有能な人であったが、私が幼いとき、私と兄と妹を残して死んでしまった。それで母が子供たちの世話をすることになった。母は非凡な人であり若く綺麗であり、一生懸命子供たちの世話をし、教育を施した。私は通常の教育コースを順調に進み、早い時期に学問に興味を持った。そして私の人生で、学問が情熱の対象であり、楽しみとなった。私が学問好きでまじめで勤勉だったので、家族は法学が私に合っていると考えたようだ。しかし、私は哲学と一般学問の追求以外には全く興味を感じなかった。家族は私がVoetやVinniusを熟読していると思っていたが、実際はキケロやウェルギリウスを密かに読んでいたのだ。
しかしながら、私のわずかな財産ではこの(学者となるという)計画を行うには不十分であった。それに私は学問に熱中し過ぎて、少し体を壊してしまった。それで普通の仕事をしようと思った。それは、どちらかというと半ば強制のようなものであった。1734年、私は大商人への推薦状をいくつか持ってブリストルに行った。しかし、2、3カ月の内に全く自分には向いていないことがわかった。それで私は田舎で学問を続けようと思いフランスに行った。そしてそこで人生の計画を立てた。私はその計画を着実に実行してきたのだ。私は徹底的に倹約して経済的に独立を維持しようと決意したのだ。そして学問の能力を伸ばす以外のことは取るに足らないことだと思うことにしたのだ。
フランスでは最初ランスに滞在したが、主にアンジューのラ・フレーシュに滞在した。そこで私は「人性論」を書いたのだ。3年間その国で快適に過ごした後、1737年私はロンドンに戻ってきた。1738年末にその「人性論」を出版した。そしてすぐに実家の母と兄のもとへ行った。兄は賢明にも財産を増やしていた。
この「人性論」は全くもって失敗であった。それは印刷機から死産したと言ってよかろう。栄誉もなく、又、おかしな人から非難されることもなかった。しかし、私は陽気で楽天的な気質なので、すぐに立ち直った。そしてその田舎で熱心に学問を続けた。1742年、私はエジンバラでエッセイの最初の部分を出版した。その作品は好意的に受け取られた。そしてまもなく、前回の失望を完全に忘れてしまった。私は母と兄のもとの田舎で勉学を続けた。その頃、ギリシャ語の知識を取り戻した。ギリシャ語は若いころあまり勉強していなかったのだ。
1745年、私はアナンデイル侯爵から手紙を受け取った。彼はイングランドに来て一緒に住むように誘った。この若い貴族の友達と家族のほうが、彼の世話を私にしてもらいたいようであった。それは彼の心と健康のためであった。私は彼と12カ月共に過ごした。この仕事のおかげでわずかだった財産がかなり増えた。その後セント・クレアール将軍から秘書として遠征に参加しないかと誘われた。最初はカナダの予定だったがフランス海岸に変わった。次の年、すなわち1747年、その将軍からウィーンとトリノの宮廷へ軍事大使として行くので参加しないかと誘われた。それで、私は軍服を着てその宮廷に行き、その宮廷では将軍の助手として紹介された。そのときハリーアースキンとグラント大佐(現将軍)も一緒だった。この2年間は私の人生で唯一学問を中断した時期だった。私は彼らと楽しくすごした。そして倹約とその仕事のおかげでかなりの財産ができた。私は経済的に自立したのだ。ただ友人は私がそういうと笑っていた。そのときの私の財産は千ポンド程度であった。
私は「人性論」での失敗は本の中身が悪かったというよりも、やり方が悪かったのだという思いを抱いていた。又、軽率にも早く出版しすぎたとも思っていた。それで最初の部分を新たに「人間知性研究」として書き直した。それは私がトリノにいるときに出版された。しかし、これも「人性論」同様、成功しなかった。イタリアから戻ると、ミドルトン博士の「自由研究」が人気を博しており、悔しかった。私の著作は完全に無視されていたのだ。かってロンドンで出版した「道徳と政治のエッセイ」の改訂版も良い評判を得られなかった。
もともと陽気な気質なので、こういう失敗もたいして苦にならなかった。1749年に田舎に戻り、兄と暮らした。母はそのころ死んだ。その土地でエッセイの第2部を書いた。タイトルは政治についてとした。それから「道徳原理研究」も書いた。これは「人性論」の第3部を刷新したものだ。そのころ、私の著書の出版者であるミラーが、「人性論」以外の私の著作が話題になりつつあると教えてくれた。徐々に売れ行きが良くなっており、新版を出す必要があると言ってきた。牧師からの反応が年に2、3回あった。また、ワォーバートン博士による批判によって、私の著作が評価を得ていることを知った。しかし私は決して反論しないと決意していたし、実際しなかった。私は短気でもなかったので、そういう口論から逃れられた。評価を得たことでやる気がでた。私は物事の悪い面よりも良い面を見る傾向があった。そういう性格であるということは、年に千ポンドの収益がある土地をもつことよりも幸せなことであろう。
1751年に田舎から都会へ移った。学問をするには都会のほうがいいのである。1752年、「政治について」がエジンバラで出版された。私はその当時エジンバラに住んでいたのである。これは出版と同時に成功した唯一の著作である。外国でも国内でも受け入れられた。同じ年にロンドンで「道徳原理探求」を出版した。これは私の全ての著作のなかで(こんなことを私自身がいうべきではないのだが)圧倒的に良い出来であったと思う。しかしあまり人々に知られることはなかった。
1752年に弁護士会はその図書館の司書として私を選んだ。そこからは、報酬はほとんどもらわなかったが膨大な図書を使わしてもらえた。その時、英国史を書こうと決めた。しかし、1700年間の期間を書くということは大変なので、とりあえずスチュアート王朝の開始から書き始めることにした。この時代から党派的な歴史の謝った解釈が始まったのである。私はこの仕事がうまくいくと楽天的に考えていた。現権力、富、権威、大衆の偏見を無視できる歴史家は私だけだと自負していた。そして、この分野はあらゆる能力を要するので、それなりの称賛を期待したのだが、悲惨な結果となってしまった。私は非難され、批判され、それどころか憎まれもさえしたのである。スコットランド人、アイルランド人、ウィッグ党員、トーリー党員、聖職者、非国教徒、自由思想家、狂信者、愛国者、延臣、これらの人たちは、チャールズ1世とストラフォード伯爵のために涙をながしたこの私に対して怒りを向けてきたのである。そして最初の怒りの爆発が終息すると、嘆かわしいことに、その著作を忘却に追いやってしまったのである。ミラー氏(出版者)は12カ月で45冊しか売れなかったと告げてきた。この3つの王国内で、この本を平静に読めることができた人はほとんどいなかったと聞いた。ただイングランドの大主教ヘーリング博士とアイルランドの大主教ストーン博士の二人は例外であった。この聖職者たちは、それぞれ、失望するなというメッセージを送ってくれた。
そうは言っても、私は落ち込んだ。もしそのときフランスとイングランドの間で戦争が始まらなかったら、私はフランスの田舎に引っ込んで、名前を変え、二度と故国に戻らなかったであろう。しかしそれができそうにもなく、続きがかなり進んでいたので、やる気をだし耐えることにした。
この期間にロンドンで「宗教の自然史」を出版した。その本にはいくつかの小論を付けた。反響はあまりなかった。ただハード博士がこれに対して反対のパンフレットを書いてきた。それは非自由主義的な嫌悪や驕りや無礼なものであった。このパンフレットはある程度心の慰めになった。というのは無関心でいられるよりはいいからである。
前巻の出版から二年後である1756年に(英国史の)第2巻が出版された。それはチャールズ1世の死から革命までの期間を記述したものである。この巻に対しては、ウィッグ党も不満を感じることなく、前巻より受け入れられることになった。そして、この作品が受け入れられただけでなく、前巻も受け入れられるようになったのである。
私は、ウィッグ党が政治と学問の分野においても支配的地位にあることがわかった。しかし、そういう意味のない批判に屈する気には全くなれなかった。それで、さらなる研究、思案の結果、2つのスチュアート朝の部分について100余りの訂正をする必要が生じた際にも、いつもトーリー党の側に立って書いた。イングランドの憲法がその時期以前に自由にまともな計画のもとに作られたと考えるなどばかげたことだ。
1759年にチューダー朝の歴史を出版した。前2巻同様、批判があった。エリザベス時代に関しては特に非難を受けた。しかし、今回は大衆の愚劣さに対して冷静であった。そしてエジンバラに引っ込んで、平穏に楽しく、イングランド史のより昔の部分2巻分を書きあげた。それは1761年に出版され、かなりの成功をおさめた。
私の著作は非難されたり称賛されたりしたが、そういうことは関係なく、時は流れ著作は進んでいったので出版社から大金が入るようになった。これはイングランドでかってないような大金だった。その結果、私は経済的に独立したばかりか大金持ちになってしまった。そして私は故国のスコットランドに引っ込んだ。そしてもう2度とそこからでないと決めた。
地位の高い人に何か頼んだり、親しくなろうとしたりしなくて済むことが嬉しかった。
もうこのとき50歳になり、残りの人生をこのように哲学的に生きようと思っていたところ、1763年にハートフォード伯爵からパリ大使として赴任するので一緒に行かないかと誘われた。彼のことは全く知らないわけでもなかった。これは将来的には大使の秘書として大使館で働くということであった。最初は断った。というのは身分の高い人と交際するのはいやだということと、陽気なパリの人は私のような年齢と性質を持つ人間を不快に思うのではと思ったからである。しかし、伯爵は何度も誘うので応じることにした。こう言う身分の高い人と交際するのは幸せだと考えられるからである。のちには彼の兄弟のコンウェイ将軍とも交際した。
パリの奇妙な慣習を見たことがない人には、私がパリで受けた、あらゆる階層の人からの接待を想像することができないであろう。私が断れば断るほど、彼らは私に重荷を背負わしてくるのである。しかしながら、知的で礼儀正しい人たちにあふれたパリでの生活は満足いくものだった。一度はこのままここに住もうかと思ったほどである。
そして私は大使の秘書に任命された。1765年の夏にハートフォード伯爵はアイルランドの代官に任命されたからである。私はリッチモンド公爵が着任するまでの年末まで、仕事を任された。1766年の始めにパリを去った。そして夏にエジンバラに戻った。以前同様、哲学的な隠遁をしようと思ったのだ。ハートフォード伯爵の友情のおかげでかなり金持ちになり相当な収入を持つこととなった。
かって人間の性質について実験したように、こんどは金持ちであることが人間にどんな影響をおよぼすかを実験したくなった。
しかし1767年、コンウェイ氏から秘書にならないかと誘われた。コンウェイ氏の性格、それとと私とハートフォード伯爵との関係を考えると、断ることができなかった。そして1769年にエディンバラに戻ったときには大金持ちになっていた。年収が1000ポンドになっていたのだ。そして健康でもあった。ただ年ともに弱ってはきていた。ゆったりと生活を楽しみ私への評価が上がるのを楽しんでいた。
1775年春、内臓の不調を感じた。最初は何の不安もなかった。しかし私はこれは不治の病だと感じた。今は間もなく死ぬだろうと考えている。痛みはほとんどない。さらに奇妙なことに、
体の衰えにもかかわらず、気力が衰えるということもないのである。
さらに言えば、もう一度人生を生きるとしたら、この人生の終末期を選びたいくらいだ。私は以前と同様に学問への情熱を持っており、仲間内でも陽気でいる。その上、
私はもう65歳であり、病気の2,3年間というのは最後のわずかな期間だと思っている。私の学問上の評価が最終的にはさらに上がるという多くのきざしがあるが、それを楽しむ時間はもうあまりない。現在の私ほどに生に対して冷静でいられるのは難しいことであろう。
振り返れば、私の性格は穏やかで、開放的で社交的で陽気であった。愛情深く、敵意には鈍感である。というよりあったといった方がいいだろう(というのはこのように過去形を使うことでこうやって大胆に書くことができるからだ。)。そして欲求の抑制ができた。私の主要な欲求である学問的名声への欲求に関しても、たびたに失望したにもかかわらず、それにによって気難しくなることもなかった。私は学者と同様に若者やおっちょこちょいな人とも交際した。私は特に謙虚な女性との交際に喜びを感じた。だからそういう女性たちからの招待を断る理由はなかった。一言で言えば、
多くの人、そして賢者でさへ人を中傷するが、わたしはそういうものに対して、動揺させられもしなかったし、さらに言えば中傷されることもなかった。
私は気ままに市民や宗教の党派の怒りに自分をさらしたけれども、彼らは、怒るだけで治まったようだ。
私の友人たちは、私の性格と行為に関して正当化する機会がなかった。しかし、想像するに、狂信者は、私の不利な点を作り上げたり、宣伝したりして喜んでいた。しかし、かれらは、彼らが考えたことが確かであるという根拠を何も発見できなかった。私はこの自分自身の告別文を書くにおいて、見栄がなかったとは言わないが、そうでなかったことをの望む次第である。この文は事実についてのことであり、それは容易に確かめられることなのである。
1776年 4月18日
MY OWN LIFE
by David Hume
It is difficult for a man to speak long of himself without vanity; therefore, I shall be short. It may be thought an instance of vanity that I pretend at all to write my life; but this Narrative shall contain little more than the History of my Writings; as, indeed, almost all my life has been spent in literary pursuits and occupations. The first success of most of my writings was not such as to be an object of vanity.
I was born the 26th of April 1711, old style, at Edinburgh. I was of a good family, both by father and mother: my father's family is a branch of the Earl of Home's, or Hume's; and my ancestors had been proprietors of the estate, which my brother possesses, for several generations. My mother was daughter of Sir David Falconer, President of the College of Justice: the title of Lord Halkerton came by succession to her brother.
My family, however, was not rich, and being myself a younger brother, my patrimony, according to the mode of my country, was of course very slender. My father, who passed for a man of parts, died when I was an infant, leaving me, with an elder brother and a sister, under the care of our mother, a woman of singular merit, who, though young and handsome, devoted herself entirely to the rearing and educating of her children. I passed through the ordinary course of education with success, and was seized very early with a passion for literature, which has been the ruling passion of my life, and the great source of my enjoyments. My studious disposition, my sobriety, and my industry, gave my family a notion that the law was a proper profession for me; but I found an unsurmountable aversion to every thing but the pursuits of philosophy and general learning; and while they fancied I was poring upon Voet and Vinnius, Cicero and Virgil were the authors which I was secretly devouring.
My very slender fortune, however, being unsuitable to this plan of life, and my health being a little broken by my ardent application, I was tempted, or rather forced, to make a very feeble trial for entering into a more active scene of life. In 1734, I went to Bristol, with some recommendations to eminent merchants, but in a few months found that scene totally unsuitable to me. I went over to France, with a view of prosecuting my studies in a country retreat; and I there laid that plan of life, which I have steadily and successfully pursued. I resolved to make a very rigid frugality supply my deficiency of fortune, to maintain unimpaired my independency, and to regard every object as contemptible, except the improvement of my talents in literature.
During my retreat in France, first at Reims, but chiefly at La Fleche, in Anjou, I composed my Treatise of Human Nature. After passing three years very agreeably in that country, I came over to London in 1737. In the end of 1738, I published my Treatise, and immediately went down to my mother and my brother, who lived at his country-house, and was employing himself very judiciously and successfully in the improvement of his fortune.
Never literary attempt was more unfortunate than my Treatise of Human Nature. It fell dead-born from the press, without reaching such distinction, as even to excite a murmur among the zealots. But being naturally of a cheerful and sanguine temper, I very soon recovered the blow, and prosecuted with great ardour my studies in the country. In 1742, I printed at Edinburgh the first part of my Essays: the work was favourably received, and soon made me entirely forget my former disappointment. I continued with my mother and brother in the country, and in that time recovered the knowledge of the Greek language, which I had too much neglected in my early youth.
In 1745, I received a letter from the Marquis of Annandale, inviting me to come and live with him in England; I found also, that the friends and family of that young nobleman were desirous of putting him under my care and direction, for the state of his mind and health required it.?I lived with him a twelvemonth. My appointments during that time made a considerable accession to my small fortune. I then received an invitation from General St. Clair to attend him as a secretary to his expedition, which was at first meant against Canada, but ended in an incursion on the coast of France. Next year, to wit, 1747, I received an invitation from the General to attend him in the same station in his military embassy to the courts of Vienna and Turin. I then wore the uniform of an officer, and was introduced at these courts as aid-de-camp to the general, along with Sir Harry Erskine and Captain Grant, now General Grant. These two years were almost the only interruptions which my studies have received during the course of my life: I passed them agreeably, and in good company; and my appointments, with my frugality, had made me reach a fortune, which I called independent, though most of my friends were inclined to smile when I said so; in short, I was now master of near a thousand pounds.
I had always entertained a notion, that my want of success in publishing the Treatise of Human Nature, had proceeded more from the manner than the matter, and that I had been guilty of a very usual indiscretion, in going to the press too early. I, therefore, cast the first part of that work anew in the Enquiry concerning Human Understanding, which was published while I was at Turin. But this piece was at first little more successful than the Treatise of Human Nature. On my return from Italy, I had the mortification to find all England in a ferment, on account of Dr. Middleton's Free Enquiry, while my performance was entirely overlooked and neglected. A new edition, which had been published at London of my Essays, moral and political, met not with a much better reception.
Such is the force of natural temper, that these disappointments made little or no impression on me. I went down in 1749, and lived two years with my brother at his country-house, for my mother was now dead. I there composed the second part of my Essays, which I called Political Discourses, and also my Enquiry concerning the Principles of Morals, which is another part of my treatise that I cast anew. Meanwhile, my bookseller, A. Millar, informed me, that my former publications (all but the unfortunate Treatise) were beginning to be the subject of conversation; that the sale of them was gradually increasing, and that new editions were demanded. Answers by Reverends, and Right Reverends, came out two or three in a year; and I found, by Dr. Warburton's railing, that the books were beginning to be esteemed in good company. However, I had fixed a resolution, which I inflexibly maintained, never to reply to any body; and not being very irascible in my temper, I have easily kept myself clear of all literary squabbles. These symptoms of a rising reputation gave me encouragement, as I was ever more disposed to see the favourable than unfavourable side of things; a turn of mind which it is more happy to possess, than to be born to an estate of ten thousand a year.
In 1751, I removed from the country to the town, the true scene for a man of letters. In 1752, were published at Edinburgh, where I then lived, my Political Discourses, the only work of mine that was successful on the first publication. It was well received abroad and at home. In the same year was published at London, my Enquiry concerning the Principles of Morals; which, in my own opinion (who ought not to judge on that subject), is of all my writings, historical, philosophical, or literary, incomparably the best. It came unnoticed and unobserved into the world.
In 1752, the Faculty of Advocates chose me their Librarian, an office from which I received little or no emolument, but which gave me the command of a large library. I then formed the plan of writing the History of England; but being frightened with the notion of continuing a narrative through a period of 1700 years, I commenced with the accession of the House of Stuart, an epoch when, I thought, the misrepresentations of faction began chiefly to take place. I was, I own, sanguine in my expectations of the success of this work. I thought that I was the only historian, that had at once neglected present power, interest, and authority, and the cry of popular prejudices; and as the subject was suited to every capacity, I expected proportional applause. But miserable was my disappointment: I was assailed by one cry of reproach, disapprobation, and even detestation; English, Scotch, and Irish, Whig and Tory, churchman and sectary, freethinker and religionist, patriot and courtier, united in their rage against the man, who had presumed to shed a generous tear for the fate of Charles I. and the Earl of Strafford; and after the first ebullitions of their fury were over, what was still more mortifying, the book seemed to sink into oblivion. Mr. Millar told me, that in a twelvemonth he sold only forty-five copies of it. I scarcely, indeed, heard of one man in the three kingdoms, considerable for rank or letters, that could endure the book. I must only except the primate of England, Dr. Herring, and the primate of Ireland, Dr. Stone, which seem two odd exceptions. These dignified prelates separately sent me messages not to be discouraged.
I was, however, I confess, discouraged; and had not the war been at that time breaking out between France and England, I had certainly retired to some provincial town of the former kingdom, have changed my name, and never more have returned to my native country. But as this scheme was not now practicable, and the subsequent volume was considerably advanced, I resolved to pick up courage and to persevere.
In this interval, I published at London my Natural History of Religion, along with some other small pieces: its public entry was rather obscure, except only that Dr. Hurd wrote a pamphlet against it, with all the illiberal petulance, arrogance, and scurrility, which distinguish the Warburtonian school. This pamphlet gave me some consolation for the otherwise indifferent reception of my performance.
In 1756, two years after the fall of the first volume, was published the second volume of my History, containing the period from the death of Charles I. till the Revolution. This performance happened to give less displeasure to the Whigs, and was better received. It not only rose itself, but helped to buoy up its unfortunate brother.
But though I had been taught by experience, that the Whig party were in possession of bestowing all places, both in the state and in literature, I was so little inclined to yield to their senseless clamour, that in above a hundred alterations, which farther study, reading, or reflection engaged me to make in the reigns of the two first Stuarts, I have made all of them invariably to the Tory side. It is ridiculous to consider the English constitution before that period as a regular plan of liberty.
In 1759, I published my History of the House of Tudor. The clamour against this performance was almost equal to that against the History of the two first Stuarts. The reign of Elizabeth was particularly obnoxious. But I was now callous against the impressions of public folly, and continued very peaceably and contentedly in my retreat at Edinburgh, to finish, in two volumes, the more early part of the English History, which I gave to the public in 1761, with tolerable, and but tolerable success.
But, notwithstanding this variety of winds and seasons, to which my writings had been exposed, they had still been making such advances, that the copy-money given me by the booksellers, much exceeded any thing formerly known in England; I was become not only independent, but opulent. I retired to my native country of Scotland, determined never more to set my foot out of it; and retaining the satisfaction of never having preferred a request to one great man, or even making advances of friendship to any of them. As I was now turned of fifty, I thought of passing all the rest of my life in this philosophical manner, when I received, in 1763, an invitation from the Earl of Hertford, with whom I was not in the least acquainted, to attend him on his embassy to Paris, with a near prospect of being appointed secretary to the embassy; and, in the meanwhile, of performing the functions of that office. This offer, however inviting, I at first declined, both because I was reluctant to begin connexions with the great, and because I was afraid that the civilities and gay company of Paris, would prove disagreeable to a person of my age and humour: but on his lordship's repeating the invitation, I accepted of it. I have every reason, both of pleasure and interest, to think myself happy in my connexions with that nobleman, as well as afterwards with his brother, General Conway.
Those who have not seen the strange effects of modes, will never imagine the reception I met with at Paris, from men and women of all ranks and stations. The more I resiled from their excessive civilities, the more I was loaded with them. There is, however, a real satisfaction in living at Paris, from the great number of sensible, knowing, and polite company with which that city abounds above all places in the universe. I thought once of settling there for life.
I was appointed secretary to the embassy; and, in summer 1765, Lord Hertford left me, being appointed Lord Lieutenant of Ireland. I was charge d'affaires till the arrival of the Duke of Richmond, towards the end of the year. In the beginning of 1766, I left Paris, and next summer went to Edinburgh, with the same view as formerly, of burying myself in a philosophical retreat. I returned to that place, not richer, but with much more money, and a much larger income, by means of Lord Hertford's friendship, than I left it; and I was desirous of trying what superfluity could produce, as I had formerly made an experiment of a competency. But, in 1767, I received from Mr. Conway an invitation to be Under-secretary; and this invitation, both the character of the person, and my connexions with Lord Hertford, prevented me from declining. I returned to Edinburgh in 1769, very opulent (for I possessed a revenue of 1000 l. a year), healthy, and though somewhat stricken in years, with the prospect of enjoying long my ease, and of seeing the increase of my reputation.
In spring 1775, I was struck with a disorder in my bowels, which at first gave me no alarm, but has since, as I apprehend it, become mortal and incurable. I now reckon upon a speedy dissolution. I have suffered very little pain from my disorder; and what is more strange, have, notwithstanding the great decline of my person, never suffered a moment's abatement of my spirits; insomuch, that were I to name the period of my life, which I should most choose to pass over again, I might be tempted to point to this later period. I possess the same ardour as ever in study, and the same gaiety in company. I consider, besides, that a man of sixty-five, by dying, cuts off only a few years of infirmities; and though I see many symptoms of my literary reputation's breaking out at last with additional lustre, I knew that I could have but few years to enjoy it. It is difficult to be more detached from life than I am at present.
To conclude historically with my own character. I am, or rather was (for that is the style I must now use in speaking of myself, which emboldens me the more to speak my sentiments); I was, I say, a man of mild dispositions, of command of temper, of an open, social, and cheerful humour, capable of attachment, but little susceptible of enmity, and of great moderation in all my passions. Even my love of literary fame, my ruling passion, never soured my temper, notwithstanding my frequent disappointments. My company was not unacceptable to the young and careless, as well as to the studious and literary; and as I took a particular pleasure in the company of modest women, I had no reason to be displeased with the reception I met with from them. In a word, though most men any wise eminent, have found reason to complain of calumny, I never was touched, or even attacked by her baleful tooth: and though I wantonly exposed myself to the rage of both civil and religious factions, they seemed to be disarmed in my behalf of their wonted fury. My friends never had occasion to vindicate any one circumstance of my character and conduct: not but that the zealots, we may well suppose, would have been glad to invent and propagate any story to my disadvantage, but they could never find any which they thought would wear the face of probability. I cannot say there is no vanity in making this funeral oration of myself, but I hope it is not a misplaced one; and this is a matter of fact which is easily cleared and ascertained.
April 18, 1776.