光の軌跡の変換としてのローレンツ変換
2011年6月28日
あとがき
このあとがきでは、いくつか思っていることを間違えを恐れずに書いてみたい。この論文では現象に違いがないなら同じことが起きるという対称性の原理を多く使って推論を行ってきた。しかし、このことは多少の注意を要すると思う。
私ごとだが、私は子供の頃、磁石というものが不思議でしょうがなかった。物は手を離すと下に落ちるのに磁石は上に磁石があれば、逆に上昇する。もっと不思議だったのは磁石と磁石の間に紙があっても、磁石は引き合うということであったような気がする。おそらく子供の頃は力は近接作用的に働き、間に紙があれば妨害されて力を及ぼせないと考えていたのだと思う。重力は力と考えていなかったであろうから、地球と物の間に紙があっても落ちるのは不思議には感じなかったのであろうが。話を元に戻すが、この磁石が上昇するということを対称性の原理から考察してみよう。
図のように上に磁石をおいて、別の磁石の支えを離す。磁石というのは見た感じは他の金属と何ら変わりない。ゆえに、他の金属と同様、この物体も下に落ちると推論できる。区別のつかないときは同じことが起きるというのが対称性の原理であった。しかし、その推論は誤りであり、磁石は上昇する。
それからもう1つ述べておこう。昔は惑星の軌道は円を描くと考えられていたようだ。円は完全だからという理由であったらしい。詳しいことを語る知識がないので、これ以上は述べないが、例えば惑星が太陽の周りを回る軌道は円でなければならない。なぜなら空間は等方的であり、太陽からある方向への距離が別の方向への距離より長くなる理由はないからである。という主張も、それなりに説得力がある。しかし実際は楕円軌道であった。速度を忘れていたからである。ここで2つの簡単な例をあげてみたが、この対称性の原理による推論は誤りをもたらしやすいということを強調したい。そして、対称性による推論が誤っていたなら素直に原因を探るべきである。話は少し違うかもしれないが、宇宙には特別な物質があり、光はその物体に対してのみ一定の速度で動き、他の系への変換はガリレオ変換を満たすということが、想像はしずらいが、あっても論理的にはおかしくないと思っている。
その他いくつか気になることを書いておこう。
- 会合の原理についてだが、ガリレオ変換では一方の系で会合の原理を満たしている場合、もう一方の系では会合の原理をみたさない。これがマイケルソンの実験がうまくいかなかった理由である。このことは付録A.2に載せておいた。
- 時間が遅れるというのはいい表現ではない。単なるある系よりも別の系の方が光の軌跡が長いということであり、誤解を与えやすい。
- 同じように物体が収縮するというのもいい表現ではない。収縮といえばまるで熱による収縮を想像してしまうが、これも、そういうものとは異質の測定の問題である。
- 我々の時間感覚とこの論文で定義した時間とは合っているだろう。というのは、我々の肉体も光と同様、電磁気学の法則に従っているからである。
- 概念・感覚を長さの概念に還元するのが物理学だが、別の概念・感覚に例えば音の大きさ、色などに他の概念(例えば長さ)を還元しても、原理的には物理学は構築できるであろう。たとえ、どんなに複雑になろうとも。
- 一般相対性理論というのは複雑すぎる。本当に自然はあんなに複雑なのであろうか
- 太陽系の重心に一定速度で動き、恒星系に関して回転していないのが慣性系であり、そのことを式に入れたのが一般相対性理論である。
もともと、時間を運動の比で表わすアイデアは私が32歳の(私は現在40歳と9カ月)とき、いまから9年近く前、時計や暦というものに興味をもって調べていたときに出てきたものだったと思う。昔のことなので、よく覚えていないが、時計や暦を調べていたのとは関係ないかもしれない。とにかく、それからずいぶんたってしまったが、今年の2月にガウス・クリューゲル法の論文を書き終わったとき、ローレンツ変換について考えていて、この論文にある\(\alpha\)の導出法を思いついた。それで、ちょっとそのことをノートにまとめようかと思ったのだが、せっかくインターネットもあるしということで、こういう形にパソコンファイルにまとめて書いて公開しようと思ったわけである。正直言って、これでローレンツ変換というものがわかったと思った。いままでわかったような、わからないような時間が明確になった。もちろんまだまだ理解が不十分なところは多々ある。なにせ、長年染み付いた、時間は誰が見ても同じという直感はなかなかぬぐいされようがない。
この論文は結構楽しく書けた。とはいっても、何度も書き直していやにもなったが。そうだなあ、修士論文を書いたとき以来かな論文を書いて楽しいというのは。やはり、自分の思ったことを自由な形式で書くのは、疲れることだが、おもしろく、やりがいのあることだと再認識した。私もかっては雑誌に論文を書いたこともあるのだが、そのときは書いてて楽しくなかった。それは、レフリーの指示通りに論文を直すのが苦痛だったのだと思う。もう12年も昔のことだからよく覚えていないが。
今度はそうだな、量子力学の基礎か、このまま相対論をやって、相対論的運動学か、熱力学か統計力学のテーマで何か書いてみたいと考えている。