付録B 磁場中のスピンハミルトニアン
磁場の中にあるスピンをもつ電荷\(q\)の粒子のハミルトニアンは、 \[ -\frac{q}{mc}\mathbf{S}\cdot \mathbf{B} \] であることが知られているが、 この付録ではこのスピンハミルトニアンについて考察する。まず一様な磁場の場合、ある仮定のもとでこのスピンハミルトニアンを導く。次に任意の磁場について考察する。
一様な磁場
今、一様な磁場の中にあるスピン1/2、電荷\(q\)の粒子を考えよう。一様な磁場とは場所と時間によらず一定という意味である。磁場は\(n\)方向を向いており、大きさは\(B\)だとしよう。その粒子の、粒子の軌道グループ(スピン以外の測定変数のこと)に関しては位置\(\mathbf{x}\)表示で、スピンに関して\(z\)方向表示のハミルトニアンを求めたい。ある表示のハミルトニアンは、エネルギー表示からその表示への変換行列を\(U\)、エネルギー測定値\(\varepsilon\)だとすると、\(U\varepsilon\; U^\dagger\)であるので(1.8節参照)、エネルギー測定値\(\varepsilon\)と変換行列\(U\)がわかればよい。そこで以下のことを仮定しよう。
【仮定1】エネルギー測定値;エネルギー測定値\(\varepsilon\)は、軌道グループの測定値\(\varepsilon_k\)と、スピングループの測定値\(\varepsilon_s\)に分かれる。つまり
\[
\varepsilon=\varepsilon_k+\varepsilon_s
\]
となる。
\(\varepsilon_k\)は軌道グループのハミルトニアン
\begin{equation}
\frac{1}{2m}\sum_{i=1}^{i=3}\left(\frac{\hbar}{i}\frac{\partial\,}{\partial\, x_i}-\frac{q}{c}A_i\right)^2
\label{itig}
\end{equation}
の固有値とする。スピングループに関しては
\[
\varepsilon_s=\left\{
\begin{array}{l}
\varepsilon_+=\displaystyle{-\frac{q}{mc}B\left(\frac{\hbar}{2}\right)}\\
\varepsilon_-=\displaystyle{-\frac{q}{mc}B\left(-\frac{\hbar}{2}\right)}
\end{array}
\right.
\]
とする。
【仮定2】 変換行列;エネルギー表示から位置\(\mathbf{x}\)、スピン\(z\)方向表示への変換行列は
\[
U=U(\mathbf{x},\varepsilon_k)\cdot U_{zn}
\]
とする。ここで\(U(\mathbf{x},\varepsilon_k)\)は軌道グループのハミルトニアン(\ref{itig})の固有値\(\varepsilon_{\mathbf{x}}\)のときの固有関数\(k(\mathbf{x};\varepsilon_k)\)である。\(U_{zn}\)は磁場が向いている方向\(n\)から\(z\)方向表示への変換行列である。これは\(n\)方向状態の\(z\)方向表示である\(k(z;n)\)のことでもある。成分の対応は、\(U_{z+,n+}\)はエネルギー\(\varepsilon_+\)から\(z+\)成分への、\(U_{z+,n-}\)はエネルギー\(\varepsilon_-\)から\(z+\)成分への変換行列とする。\(z-\)についても同様。
なぜこのように仮定した(3.4節でこの仮定はすでに使ったが)かということについて簡単に述べるが、大雑把に言うと、この系でのエネルギー測定状態というのは、軌道グループについては(\ref{itig})の固有ベクトルに対応する状態で、スピンに関しては、エネルギーが\(\varepsilon_+\)のときは、スピンが磁場の方向に向いている\(n+\)の状態で、エネルギーが\(\varepsilon_-\)のときはスピンが磁場の逆を向いている\(n-\)の状態だということである。イメージとしてはこういうことだが、この論文の理屈に沿った言い方をすると、状態とはすべての物理量での確率分布のことであったのだから、系のエネルギー\(\varepsilon\)の測定状態での任意の物理量の確率分布は、軌道グループのエネルギー測定状態での確率分布\(|k(\mathbf{x};\varepsilon_k)|^2\)と、スピンが\(n+\)方向かその逆向き\(n-\)の状態での確率分布\(|k(z;n)|^2\)の積になるということである。例えば、エネルギー\(\varepsilon\)の測定状態での、軌道グループでは位置\(\mathbf{x}\)、スピングループでは\(z\)方向の確率分布\(P(\mathbf{x},z;\varepsilon)\)は \[ P(\mathbf{x},z;\varepsilon)=|k(\mathbf{x};\varepsilon_k)|^2\cdot |k(z;n)|^2 \] と積の形になるということである。これは磁場が一様であればスピンエネルギーは位置に全く関係ないのだから軌道グループとスピングループの確率が全く独立ということで合理的な仮定だと思う。遠く離れた2つの粒子の状態がこのように掛け算になるのと同じことである。その結果(もう少し綿密な議論は必要だが、そこは省いて)確率振幅もそれぞれのグループの確率分布に対応したものの積になる。だから、エネルギー\(\varepsilon\)の測定状態での、位置\(\mathbf{x}\)、スピン\(z\)方向表示の確率振幅\(k(\mathbf{x},z;\varepsilon)\)は \[ k(\mathbf{x},z;\varepsilon)=k(\mathbf{x};\varepsilon_k)\cdot k(z;n) \] というようになるわけである。変換行列はその測定状態を変換先の確率振幅で表したものであった(第1章、命題1.2)のだから、これが変換行列になるというわけである。
さて、長々と【仮定1】と【仮定2】の根拠を述べてきたが、とにかくこの仮定を使って位置\(\mathbf{x}\)、スピン\(z\)方向表示表示のハミルトニアンを求めてみよう。 ハミルトニアンは\(U\varepsilon U^\dagger\)を計算すればよく、今の記号では \[ \sum_{\varepsilon_k,\varepsilon_s} \Big[U(\mathbf{x}',\varepsilon_k)U_{z'n}\Big](\varepsilon_k+\varepsilon_s)\Big[ U^*(\mathbf{x},\varepsilon_k)U^*_{zn}\Big] \] を計算すればよい。これを展開すると \[ \left[\sum_{\varepsilon_k} U(\mathbf{x}',\varepsilon_k)\cdot\varepsilon_k\cdot U^*(\mathbf{x},\varepsilon_k)\right] \cdot \left[\sum_{\varepsilon_s} U_{z'n}U^*_{zn}\right] + \left[\sum_{\varepsilon_k} U(\mathbf{x}',\varepsilon_k) U^*(\mathbf{x},\varepsilon_k)\right] \cdot \left[\sum_{\varepsilon_s} U_{z'n}\cdot \varepsilon_s\cdot U^*_{zn}\right] \] となる。 それぞれの項だが、まず最初の項は第4章の命題4.1で述べたように、 \[ \sum_{\varepsilon_k} U(\mathbf{x}',\varepsilon_k)\cdot\varepsilon_k\cdot U^*(\mathbf{x},\varepsilon_k) =\frac{1}{2m}\sum_{i=1}^{i=3}\left(\frac{\hbar}{i}\frac{\partial\,}{\partial\, x_i}-\frac{q}{c}A_i\right)^2 \] となる。また2番目の項は、変換行列がユニタリーなので \[ \sum_{\varepsilon_s} U_{z'n}U^*_{zn}=\delta_{z'z} \] となる。3番目の項もユニタリーであることから \[ \sum_{\varepsilon_k} U(\mathbf{x}',\varepsilon_k) U^*(\mathbf{x},\varepsilon_k)=\delta_{\mathbf{x}'\mathbf{x}} \] となる。今、興味あるのは最後の項の \begin{equation} \sum_{\varepsilon_s} U_{z'n}\cdot \varepsilon_s\cdot U^*_{zn} \label{sai} \end{equation} である。この\(\varepsilon_s\)というのはスピンが\(n+\)状態のときは\(\varepsilon_+\)で、\(n-\)状態のときは\(\varepsilon_-\) なのだから、行列で表すと \[ \varepsilon_s=-\frac{qB}{mc}\cdot\frac{\hbar}{2} \left(\begin{array}{cc} 1&0\\ 0&-1 \end{array}\right) \] だということである。この \[ \frac{\hbar}{2} \left(\begin{array}{cc} 1&0\\ 0&-1 \end{array}\right) \] は、付録Aで述べた\(n\)方向のスピン演算子の\(n\)方向表示\(S^n_{n'n}\)に他ならない。これを使うと \[ \varepsilon_s=-\frac{qB}{mc}\cdot S^n_{n'n} \] である。 さて、式(\ref{sai})はこのスピン演算子を\(z\)方向表示に変えているわけであり、 \[ \sum_{\varepsilon_s} U_{z'n}\cdot \varepsilon_s\cdot U^*_{zn}=-\frac{qB}{mc}\cdot S^n_{z'z} \] である。そして、付録Aの式(1)で述べたように、 \[ S^n_{z'z}=n_xS^x_{z'z}+n_yS^y_{z'z}+n_zS^z_{z'z} \] であった。ここで\(n_x,n_y,n_z\)は方向\(n\)の単位ベクトルの\(x,y,z\)成分。だから \[ \sum_{\varepsilon_s} U_{z'n}\cdot \varepsilon_s\cdot U^*_{zn}=-\frac{q}{mc}\cdot (B_xS^x_{z'z}+B_yS^y_{z'z}+B_zS^z_{z'z}) \] である。ここで\(B_x,B_y,B_z\)は磁場の\(x,y,z\)成分。又は簡潔に \[ -\frac{q}{mc}\mathbf{B}\cdot \mathbf{S}_{z'z} \] と書いてもよい。ここで\(\mathbf{S}_{z'z}=(S^x_{z'z},S^y_{z'z},S^z_{z'z})\)のこと。結局、位置\(\mathbf{x}\)、スピン\(z\)方向表示表示のハミルトニアンは \[ H=\frac{1}{2m}\sum_{i=1}^{i=3}\left(\frac{\hbar}{i}\frac{\partial\,}{\partial\, x_i}-\frac{q}{c}A_i\right)^2\cdot\delta_{z'z}-\delta_{\mathbf{x}'\mathbf{x}}\cdot\frac{q}{mc}\mathbf{B}\cdot \mathbf{S}_{z'z} \] となる。通常は\(\delta_{z'z},\delta_{\mathbf{x}'\mathbf{x}}\)は省くので \begin{equation} H=\frac{1}{2m}\sum_{i=1}^{i=3}\left(\frac{\hbar}{i}\frac{\partial\,}{\partial\, x_i}-\frac{q}{c}A_i\right)^2-\frac{q}{mc}\mathbf{B}\cdot \mathbf{S}_{z'z} \label{tujo} \end{equation} となる。
ここではハミルトニアンをスピン演算子などという大層なものを持ち出して書き下したが、そんなものを持ち出さなくても(\ref{sai})を\(z\)方向表示にすれば単に、磁場の向きの極座標を\(\theta,\phi\)として、 \[ \sum_{\varepsilon_s} U_{z'n}\cdot \varepsilon_s\cdot U^*_{zn} = -\frac{qB\hbar}{2mc} \left(\begin{array}{cc} \cos\theta&\sin\theta\cdot e^{-i\phi}\\ \sin\theta \cdot e^{i\phi}&-\cos\theta \end{array}\right) = -\frac{q\hbar}{2mc} \left( \begin{array}{cc} B_z&B_x-iB_y\\ B_x+iB_y&-B_z \end{array} \right) \] と変換されるだけの話である(付録A、式(2)参照)。 ではスピン演算子などという大げさなものを持ち出す意味が全くないかと言うとそうではないと思う。 古典電磁気学によると磁気モーメント\(\mathbf{m}\)のエネルギーは \[ -\mathbf{m}\cdot \mathbf{B} \] である。そして磁気モーメントは角運動量\(\mathbf{s}\)に比例する。その比例定数を\(q/mc\)だとすれば、つまり\(\mathbf{m}=-\frac{q}{mc}\mathbf{s}\)とすれば、 エネルギーは \[ -\frac{q}{mc}\mathbf{s}\cdot \mathbf{B} \] となる。この\(\mathbf{s}\)をスピン演算子に置き換えるとスピンハミルトニアンが得られる。これは第4章 で、物理量を演算子に置き換えた手法と同じになっている。そしてスピンの平均値\(\left<\mathbf{S}\right>\)の時間発展なども \[ \frac{d\left<\mathbf{S}\right>}{dt}=\psi^\dagger\frac{[\mathbf{S},H]}{i\hbar}\psi \] を計算すればよく、ハミルトニアンを物理量に対応した演算子で書くことは便利ではある。
磁場が一様でない場合
磁場が場所によって変化する場合はどうか。このハミルトニアンを導出したときに使った仮定を振り返るに、【仮定1】については、つまりエネルギー測定値が\(\varepsilon=\varepsilon_x+\varepsilon_s\) とそれぞれの測定値の和になることについてだが、磁場が場所によって大きさを変えれば、スピンエネルギーも場所によって変わるであろう。となると 全体のエネルギーがある一定の値になるためには、軌道グループのエネルギーが場所によって変わらなければならない。というわけで、【仮定1】は成り立たなくなる。【仮定2】については、つまり変換行列が \(U(\mathbf{x},\varepsilon_k)U_{zn}\)となることについてだが、磁場が場所ごとに向きを変えれば明らかに成り立たない。では磁場が一様でない場合はハミルトニアンは(\ref{tujo})のようにはならないのかといえば、それは私には何とも言えないが、このハミルトニアンが正しいということにはなっている。 上に述べたような、角運動量の項をスピン演算子に置き換えればこのハミルトニアンになってくれているというのも正しさの根拠にはなるであろう。というのは、軌道グループではこの手法が不思議とうまくいっているからである。しかしそんな根拠のあやふやな議論よりもこの式が現象に合っているのかどうかである。そのことがこのハミルトニアンが正しいかどうかを決めるのである。