おわりに
最後に、量子力学についての感想のようなものをざっくばらんに書いてみたい。
疑問点、問題点
測定後の状態
公式の量子力学の見解に従えば、位置を測るとその測定値の測定状態に飛び移り、その状態の運動量の確率分布は\(-\infty\)から\(+\infty\)まですべての値で等しくなる。その結果、エネルギーの期待値は無限大になる。運動量を測った場合も同様である。しかし、これは霧箱の例(6.2節参照)でも見ているように事実に反している。 「いやいや、実際の位置の測定には幅があり、デルタ関数に収束するというのは極限である。だから運動量の確率分布も\(-\infty\)から\(+\infty\)ではなく、有限の範囲なのだ。」という反論もあろう。確かにデルタ関数というのは極限の話である。実際は幅があるに決まっている。しかしその場合でも運動量の確率分布は等方的になるであろう。しかし霧箱では、検出された粒子の運動量は決して等方的な確率分布にならず、過去の履歴を保ったまま運動を続けている。 だから位置を測ったら運動量の確率分布がどうなるかは、場合場合によるのだろうし、要は、わからないというだけのことなのである。
観測問題
明らかにおかしな問題として、観測問題がある。状態は測定時だけは通常の時間発展方程式に従わない。しかし、測定装置も電子などで構成されている自然の一部であり、測定という行為も自然現象の一つである。そのときだけ通常の時間発展方程式に従わないというのは明らかにおかしなことである。 自然の連続性を考えれば、測定直後に再びその物理量を測れば、同じ値が得られるはずである。だから波束の収縮ということ自体は、確率というのが基本原理になっている量子力学では避けられないことだと思う。その波束の収縮がシュレディンガー方程式で記述できればよいのだが、第8章で述べたように、できそうにないのである。
古典論にいつ入るか
測定するにはどこかで古典論(決定論)に入らなければならない。霧箱では白い線が見えるだけである。それを見て粒子が通ったという推測が成り立つためには、粒子が過飽和蒸気に衝突してそれが水滴になったという決定論(古典論)としての理論が必要なのである。しかしその古典論自体が正しくないといっているのである。正しくない理論を根拠に測定するということは到底理解できないことである。
量子力学は謙虚にならなければならない。わかっていないことが多いのである。理論を早急に完成させすぎたのである。電子の運動がシュレディンガー方程式に従うのは正しいし、エネルギー測定値が飛び飛びになるのも正しいであろう。しかし波束の収縮はどうなのだろうか。確率でしかわからないというのはどうなのだろうか。1つ1つの粒子がポツンポツンと来て干渉縞が現れるという実験もあるらしいが、直接確かめた実験はあまり多くないのではないか。真実に向かう道は、個々の実験を分析して、正しい部分を見つけ出すことではないかと思う。
情報と量子力学的確率分布
第7章では、状態が既知か未知かの場合わけをして話をした。つまり粒子は何らかの状態にあるが、その状態を我々が知っている場合と知らない場合というわけである。大げさに言えば、真の状態というものが存在しているが単にそれを我々が知っていたり、知らなかったりということである。これが公式の量子力学の見解だと思う。 しかしこれについては何かおかしなものを感じる。例えばある箱に粒子が閉じ込められているとすると、この粒子の量子力学的の意味での位置の確率分布は箱いっぱいに広がっているのだろうか、それとも箱の一部に局在しているのだろうか。 箱の中にあるという情報だけからは、真の確率分布(状態とは確率分布の組ことであった)について、位置の確率分布が箱の外では消えるということ以外は何とも言えない。しかし位置の(真の)確率分布は箱の中に均等に広がっていると考えた方がいいと感じる。というのは例えば位置を測定したとして、測定値はある範囲だったとすると、測定後の位置の確率分布はその範囲全体に広がっていると考え、決してその範囲のほんの一部とは考えないからである。簡潔に言えば、量子力学の確率分布というのは我々が知らない分だけの広がりがあるのではないだろうかとは私は感じるのである。
初期状態
初期状態をいかにして知るのだろうか。それがわからなければ時間発展方程式も意味をなさない。測定後は測定状態に移るということになっているので、測定後の状態についてはわかるということになっている。しかし、実際はそうはならない。測定値というのは決して、ある値だと断言できるわけではなく、ある範囲にあると言えるだけである。位置を測っても、通常は検出器の大きさの程度の精度しかない。となると、その範囲の中での位置の確率分布もわからないし、当然運動量についてもわからないのである。そういうわけで、測定後でも状態は正確にはわからないのである。
測定状態以外では、7.5節で述べたように、全く同じ条件で膨大な粒子の物理量を測定して、その粒子数の分布がわかれば、その中の一つの粒子は、その物理量に対してその粒子数分布と同一の確率分布を持つであろうという推測は――――正しいかどうかは断定できないが――――できる。
又、第10章で述べた熱平衡にある気体の一つ一つの粒子についての運動量の確率分布は、マクスウェル分布になると――――公式の統計力学の見解では一つ一つの粒子はエネルギー測定状態だといっているが――――私は思っている。又、カノニカル分布の考えを使えば、十分低い温度では粒子は基底状態にあるとの推論が成り立つわけで、こういう場合も状態が分かる。
初期状態を知る方法はこれと言って明確なものはないと言っていい。ただ、こういう状況ではこういう状態になっているという一種の経験則のようなものはあるのだろう。初期状態がわからなければ時間発展方程式など意味がないというのはそのとおりだが、7.6節でも簡単に触れたが、状態が正確にわからなくても我々が欲しい程度の成果は得られることもあるのである。電子顕微鏡なども、熱源から取り出した電子を加速させることによって、波長をそろえているようだが、実際は熱源の中の電子の運動量はマクスウェル分布であり、大きな幅がある。電子の状態が正確にわかるわけではない。しかし、加速の程度が加速前の電子の運動量の幅に比して大きければ、加速後の電子の波長はそろっていると言ってもよく――――簡単に言えば熱源の電子はすべて止まっていたとみなしてよく――――電子顕微鏡として機能しているのである。
量子力学はどういう意味で正しいか
このように量子力学には観測問題を始めとして疑問点が多い。だからと言って、量子力学のすべてが間違っているわけでは決してない。そこで量子力学のどういう点が正しいか、どういう意味で役に立っているかを簡単に書いてみたい。
物質波としての正しさ
まずそれは物質波として粒子の行動がわかるという点である。 電子、陽子などの微粒子の運動は時間発展方程式で決まる。これは確率分布の時間発展方程式なのだが、粒子が多数のときは決定論の方程式とみなせる。実験で扱うのは主に多粒子系である。アボガドロ数のような数の粒子である。その粒子群の行動がわかるのである。何割がこっちに行き、何割があっちに行くという、この何割が確率でなく決定論的にわかるのである。散乱実験でも、第8章で述べた2重スリットの実験でもそうである。第7章で述べた不均一磁場の分離でも、スピンの偏りが予めわかっていれば、何割が上に行き、何割が下に行くかの、その何割が予言できるのである(7.7節、図7.27参照)。人間の目からは1個1個の粒子など見えないのだから、これは物質の波動論として決定論的方程式とみなせる。電子顕微鏡もこういう電子波が決定論的方程式として動くとみなせるとして使われているわけである。こういう物質の行動を波動方程式が決め、それが決定論だというのは、電磁波の方程式が役に立つのに似ている。電磁波は本当は光子からなるが――――こういう言い方も正確ではないが――――散乱実験でも偏光の実験でも、強度が強まれば正確に記述できる。
統計力学への応用
量子力学が役に立っている例としては、エネルギー固有値がわかることによって物質の性質がわかるということである。物性論、統計力学、化学において量子力学が役に立っているのは、正にこのエネルギー固有値という知識によってである。エネルギー固有値と平衡におけるエネルギー分布であるカノニカル分布が結びついて、役に立っているのである。原子の周期律表がなぜあのようになっているのかも、この考えでわかるのである。これはまず、波動方程式の固有値問題から多電子の最低エネルギーを求め、基底状態の波動関数を求め、カノニカル分布から通常の温度ではその多電子は基底状態にいるということがわかり、原子の性質を求めているのである。エネルギー固有値だけでは物質の性質はわからないが、カノニカル分布も合わせて使えばわかるのである。又、化学反応でも、結合するエネルギーを波動方程式の固有値問題で求め、そして反応の起きやすさは、一般には波動方程式からでなく、エネルギーの低い方――――これはカノニカル分布から言える――――に行くとして、状態の多い方に行くとして、求めているのである。ここでは波束の収縮などということなど全く関係ない話なのである。他にももちろん量子力学が役に立っている例、正しい例は多々あると思うが、そのつどいろんな知識を補足し(今の例ならカノニカル分布)役に立っているわけである。
決定論に移るためには
量子力学では結果は確率でしかわからないと主張している。確率でしかわからないというのは全く同じ実験をしても結論はAになることもあるしBになることもあるというのである。 将来、決定論の物理体系ができるようになるためには、この全く同じ実験というのが実は同じでなく、違いがあり、その違いによって結果がAにもなりBにもなるというようにしなければならない。では全く同じ実験だとみなされているものにどう違いを見出すのだろうか。それはまず一つには測定される側の粒子の初期状態に違いがあるというのが考えられる。それと実験装置は巨視的には同じ状況に見えても、当たり前だが、微視的には異なる状態にある。同じ温度で実験していても、微視的に実験装置の個々の原子を見れば全く違う状況にあるわけである。こういうところが違うということによって決定論の物理法則が見いだされるしかないのだろう。
二重スリットの実験で考えると、まず分離の方法である運動量の測定状態にある粒子を1つづつ2重スリットに通し、スクリーンで粒子を検出する。それを繰り返すと粒子分布は干渉縞になる。1つ1つの粒子はどこに来るかわからない。その確率がわかるだけである。このような実験は実際にすでに行われているようで、このとおりに粒子数分布は干渉縞になったようである。この実験で考えると毎回来る粒子の状態が全く同じということはあるまい。又、実験装置が微視的に見れば毎回異なる状態にあることは言うまでもない。決定論に移るためにはこれらの違いが粒子の来る位置を決めるその因果関係を見いださねばならない。
ある偏ったスピン状態は作り出せるので、その方向に対して装置を\(\theta\)傾ければ、粒子が通過する確率は上向きが\(\cos^2(\theta/2)\)である。これを粒子1つづつで実験を行い確かめたということは聞いたことはないが、仮にこれが実際に起きたとして、何が原因で粒子は上に行ったり、下に行ったりするのだろうか。もし決定論に移ろうとして原因を探るなら、それはやはり粒子の状態が、上に行く粒子と下に行く粒子で異なることに原因があるのか、実験装置に原因があるのかどちらかしかない。
将来的に決定論の物理法則に移ることができるようになるのかは私にはさっぱり予想がつかない。ただ、現在の量子力学では疑問点が多すぎて不満だということである。 量子力学にいろんな不満がありながらも、上に述べたように正しい部分もある。多粒子の行動はシュレディンガー方程式で決まるのである。
ボーアらコペンハーゲン学派と言われる人たちは量子力学は最終的な理論だと考えいたようである。少なくとも確率の原理は絶対だと考えていたようである。一方アインシュタインはいずれ決定論に置き換わると考えていたようである。しかしどんなに権威ある人がこれが最終的だと言ってもボーア、ハイゼンベルク、パウリらの著書を読む限り、これが最終的で確率の原理は最終的なものだということに説得力はないのである。それは率直な私の感想である。私としても確率でしかわからないのなら、それはそれでいいのだが、納得させてもらいたいのである。「制御不能な相互作用により時空的記述はあきらめる」などという意味不明のことでは納得できないわけである。 権威ある人が正しいと言わなければ、普通に考えれば、量子力学の主張していることには無理があるのである。この論文を書いていて改めてそう思ったしだいである。